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『ミオの食卓』の仮営業最終日、その朝だけは、開店前から店の前がいつもと違っていた。普段なら開店三十分前に数人が並び始め、そのあと少しずつ列が伸びる程度だったのに、今日はミオが市場へ着いた時点ですでに十人を超える客が待っていた。しかも、その後ろからさらに人が増えている。「……何かの催しでもあります?」思わずそんなことを言うと、入口の札を出していたリュナが、少し困ったように笑った。「ある意味では、そうかもしれません。今日で仮営業が終わるって、昨日の午後くらいから市場中に広まったみたいです」「どうしてそんなに広まるんですか」「この店、もう普通に噂になってますから。陛下が相席したとか、陛下が皿洗いしたとか、王族が二人並んで働いてたとか、ガランさんが三回来たとか、そういうのが全部混ざってます」「最後のは普通でしょう」「人間嫌いで有名なガランさんが、人間のミオ様の店へ何度も来てるのは、市場の人には結構大きいらしいですよ」「なるほど……」嬉しいような、怖いような気持ちになる。
翌朝、ミオが封鎖書庫へ向かうと、昨夜ザラが話していた神官日誌の写本は、すでに机の中央へ置かれていた。古びた革表紙の冊子そのものは人間王国から持ち出された原本ではなく、およそ百二十年前にヴァルディアの研究者が交易都市で入手し、内容を書き写したものだという。つまり、それだけでも一段階以上の不確かさがあるうえ、元になった日誌が本当に人間神殿の神官によって書かれたものなのかという問題まで残っている。それでも、三年前のミオ召喚日に当たる記述が存在する以上、無視するわけにはいかなかった。「最初に言っておくけど、題名みたいに『初代聖女が目を開けた』と決めつけるのは禁止だからね」ミオが椅子へ座るより先に、ザラが釘を刺した。「私、まだ何も言ってませんよ」「顔に書いてあるのよ。昨日からずっと『もしかして棺の中でアリサが目を覚ましたのでは』って考えてるでしょう」「……少しくらいは考えますよ。『白き眠り、三息のみ開眼』なんて書いてあったら、普通そう思うじゃないですか」「普通にそう思うからこそ危ないの。古い宗教文書では、祭具が起動したことを『目覚める』と呼んだり、封印の監視術式が反応したことを『目を開く』と表現したりする。ましてこれは原本ではなく写本よ」向かい側に座っていたカエルも、珍しくザラに同意するように頷いた。「私も、今日は先に断定しないと決めている」ミオは少し驚いて彼を見る。「カエルまでそんなことを言うようになったんですね」「最近、私が何か言うたびにザラから『証拠は?』と聞かれる」「学習したのね」「うるさい」ザラは平然と返し、日誌の写本を開いた。書庫にはほかにアルクとセバンがいる。全員が揃っているのは、この一冊に何か決定的な真実が書かれていると期待しているからではなく、逆に、一つの曖昧な文章を誰か一人の解釈で決めないためだった。「この日誌を書いたとされるのは、当時の中央神殿で祭具管理を担当していた下級神官。名前はエドラス・セルン。ただし、この人物が本当に存在したかについては、人間王国側の名簿を確認できていない」「日記には、私の召喚について書かれているんですか?」「直接『相沢美緒』とは書いてないわ。そこも大事」ザラは該当箇所へ指を置いた。「日付は、王宮側の記録であなたが召喚された日と一致する。そして本文は、こう始まってる」ザラがゆっくり読
リリアが王宮記録庫への閲覧申請を出したという報告がヴァルディアへ届いたのは、それから三日後のことだった。ただし、知らせを持ってきたのはリリア本人ではない。最初に届いたのは、人間王国側で独自に調査を続けていたアドリアンからの追加報告だった。その朝、ミオは『ミオの食卓』の仕込みを終えたところで、王城から急ぎの使いが来たと聞かされた。何か事件が起きたのかと一瞬身構えたが、迎えに来たリュナによれば、北塔で再び異常が起きたわけでも、ミーナの容体が悪化したわけでもないらしい。「ザラ様が、『昼営業の前に見せたいものがあるけど、店を休ませるほどじゃない』って言ってました」「その言い方、すごくザラらしいですね」「あと、『陛下が勝手にミオ様を連れてくる前に、正式に呼んでおく』とも」「カエル、何かしました?」「まだ何も。でもザラ様は、『あの人ならする』って」「信用があるんだかないんだか分かりませんね」リュナと笑いながら店を出ると、王城までは馬車を使った。午前中だけ書庫へ顔を出し、昼前には戻って営業へ参加する予定である。以前のミオなら、「重要な情報が出たのだから今日は店を休もう」と自分から決めていたかもしれない。しかし最近は、一つの謎が見つかるたびに生活全部を止めて追いかけることをしなくなった。調査も大切。店も大切。どちらか一つだけが、本当の自分ではない。その感覚が少しずつ身についてきていた。封鎖書庫へ入ると、ザラとアルク、セバンのほかにカエルもすでに待っていた。「やっぱりいる」ミオが言うと、カエルが少し不満そうに眉を寄せた。「私がいてはいけない?」「そういう意味じゃありません。ザラの予想どおりだったなと思っただけです」「何を予想した?」「気にしなくていいです」「気になる」「あとでザラ本人に聞いてください」向かい側で資料を広げていたザラが、面倒そうに手を振った。「その話はどうでもいいから座って。人間側から二系統、かなり近い内容の報告が届いた」ミオはすぐに表情を引き締めた。「二系統?」「一つは王太子アドリアン側。もう一つは、おそらくリリアから」「おそらく?」「本人名義じゃないの?」ザラは一枚の薄い紙を持ち上げた。「前回とは違う経路を使っている。差出人名もない。ただ、本文に『白炎の娘より』とだけ書いてあって、筆跡が前回の手紙と
リリアへ返事を送った翌朝、ミオは『ミオの食卓』の開店準備をしながら、自分でも驚くほど何度も店の入口へ目を向けていた。もちろん、昨日出したばかりの手紙に今日返事が届くはずはない。そもそも正式な外交便を使わず、中立商人を何人か経由して人間王国へ戻す以上、無事にリリアの手元まで届くかどうかすら分からない。それでも、自分から彼女へ言葉を返したことで、それまで一方的に「自分を追い出したあとに現れた聖女」として記憶の中に置いていた存在が、急に現実の一人の女性として近くなったように感じられていた。「ミオ、さっきから入口ばっかり見てるぞ。今日、誰か来る予定でもあんのか?」厨房からバルムに声をかけられ、ミオは慌てて鍋へ視線を戻した。「誰も来ませんよ。ちょっと考え事をしていただけです」「それなら手ぇ止めんな。考え事しながらでも根菜は切れる」「料理人って厳しいですね」「包丁持ってる奴がぼんやりしてたら怖えだろうが」「それは確かに」素直に認め、ミオは月白根と呼ばれる淡い色の根菜を小さく切り分けていった。今日は鳥肉ではなく、豆と刻んだ香草を使った軽い煮込みを出す予定で、月蜜菓子は昨日より少し数を増やしてある。足を捻っていたノアも、今日はほとんど普通に歩けるところまで回復していた。ただしバルムから「治ったつもりで走るな」と何度も釘を刺され、厨房内での移動は普段より慎重にしている。リュナは客席の卓を拭き終え、開店札を出しながらミオのところへ戻ってきた。「今日の列、昨日よりちょっと短いですよ」「それはそれで心配になりますね」「昨日は昨日で『多すぎる』って言ってませんでした?」「言いました」「じゃあ、何人なら安心するんですか?」「分かりません」即答すると、リュナが笑った。「ミオ様って、店を始めてから前より面倒くさくなりましたよね」「最近みんな私にそれ言いません?」「陛下と一緒にいるから移ったんじゃないですか?」「それは本人に聞かせないでください。たぶん『似てきたのか』って喜びますから」「喜びそうです」二人で笑い合いながら準備を続けているうちに、開店の時間になった。今日の最初の客は、南市場で革を扱っているダンだった。初日の営業でカエルと相席になり、東通りの補修工事について直接話すことになった男である。「おはよう、ミオさん。今日は陛下はいないのか?」







